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通信の歴史①〜狼煙

原始的な通信技術としては、例えば狼煙や太鼓がある。狼煙(のろし)は、敵軍の発見を友軍に通知するシグナルとして全世界的に使用されていた。

狼煙(のろし)とは、昔に行なわれていた煙や火を使った通信方法のことです。煙を高く上げ、離れた場所からその煙を確認するという簡単な情報の伝達手段で、煙が見えない夜など場合には、煙ではなく火そのもので確認をとっていました。
狼煙という言葉には狼(おおかみ)という漢字が使われています。これは、もともと狼煙を上げる際にオオカミの糞を火種にしていたことからと言われています。オオカミの糞を使った狼煙は、真っ直ぐ上がって風にも強いと言われています。これは、オオカミがイヌと較べると純粋な肉食であるため、その排泄物に動物性タンパク質の残滓がより多く含まれているからと言われています。しかし、日本ではオオカミの糞を入手するのがさほど容易ではなかったため、実際には藁(わら)や杉の葉、火薬などを代用していたようです。
狼煙は古くは烽燧(ほうすい)呼ばれていました。烽も燧も「のろし」を意味しますが、烽は昼間に上げる煙のことを指し、燧は夜間に上げる火のことを指しています。
この煙などをあげる方法は、人や馬が手紙を運ぶよりも早くそして遠くまで伝えることができした。また、狼煙をいくつも繋ぐことによって、さらに遠くまで情報を伝えることも可能でした。ただしその欠点は、煙や火を用いているために天候に左右されてしまうことです。また、伝えられる情報量に限りがある点では、人馬による伝達よりは劣っています。しかしながら、伝達速度に関しては、ある実験では時速140kmを超える成果があげられたようです。
日本では、弥生時代(今から約2,400年前)に大陸からその方法が伝わり、すで使用していたものと考えられています。7世紀になると、大陸からの侵略に備えるために防人(さきもり)とともに対馬などに設置されたり、内乱に備えるために使用されていたようで、その様子が『日本書紀』に記載されています。さらに8世紀には、その設置間隔や狼煙のあげ方などが制度として確立していたようです。しかし、その制度も徐々に衰えて9世紀にはなくなってしまいました。その後は、おもに戦国時代などの合戦などに使用され、火薬の発達により煙の色を変えるなど狼煙も進歩していきました。
〈横浜市歴史博物館HPより〉

日本では、『日本書紀』に記述があることからすでに奈良時代には狼煙が利用されていたことがわかっています。『日本書紀』の巻第27「天命開別天皇 天智天皇」の項目に、「於対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等、置防与烽」という記述があります。「烽火(とぶひ)」というのが狼煙のことで、古来はこの名が使われていました。「対馬・壱岐島・筑紫の国などに、防人と烽火を備えた」という内容。天智天皇3年(664年)のことです。
内容を見るとわかりますが、どの地も西の国境にあたる地域です。対馬や筑紫などは朝鮮半島や中国と一番近い場所であり、ここに狼煙台を設置して防人を置いて入寇に備えたのです。火急の知らせを中央に伝える仕組みとして機能していました。
〈戦国ヒストリーHPより〉

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